「普通でいいから」と注意され、「普通って何?💢」と聞き返す前半生だった。
「普通」とは何か。全然わからなかった。
自分なりに考えた結果、「その場の標準」が「普通」なのだと解釈した。
イレギュラーじゃないこと。異質じゃないこと。異端じゃないこと。
みんなと同じこと。
「普通」は場ごとに変わる。
一般社会という場なら、部屋を片付けるのは「普通」。
だって、部屋がきれいな方が気持ち良いから。
でも、「片付けない人たちが集まる場」での「普通」は変わる。
なんで片付けなくちゃいけないの?って疑問を抱いているのが「普通」になる。
一般社会なら「遅刻しない」のが「普通」だけど、ADHD脳の集まりなら「遅刻しない」のは「スゴイ!」に変わる。
「普通」を目指す生き方とは、属する場や立場を意識した生き方なのだ。
小さい頃から「普通」を教わる。
女の子なんだから、おとなしくしなさい。
男の子なんだから、泣くんじゃありません。
お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい。
お兄ちゃんなんだから、しっかりしなさい。
子どもなんだから、大人に生意気なこと言うんじゃありません。
大人になっても「普通」を求められる。
大人なんだから、子供相手に張り合うんじゃないよ。
もういい年なんだから、落ち着きなさいよ。
働いてるの?
「普通」が相手だと安心なのだ。
「普通」は集団の中に紛れ込める。安全なのだ。
ずっと「普通」を目指していた。
でも、普通の人は努力せずに「普通」ができると知って、嫌になった。
「普通」じゃなくてもいいやと諦めた。
そうしたら、自分が持ってる「普通」に気付いた。
「普通」が絶対的なものじゃなくて、いる場所で変わることに気付いた。
数年前なら、「入浴がしんどい」なんて口が裂けても言えなかった。恥ずかしくて。
でも、今は平気で言う。
同じように「入浴がしんどい」と感じてる人たちがたくさんいることを知っている。その人達だけで集まったら「入浴がしんどい」のが「普通」になる。それがわかるから、平気で言える。
生まれから40年近く「普通」を目指す生き方をしていた。
「普通」を目指さなくなって、何を目指せばいいのかわからなくなった。
ずっと「普通」になりたかったから、「みんなと同じ」になりたかったから。
それがなくなって、どうしたらいいかわからなくなって、燃え尽き症候群のようになった。
なりたい自分が消えて、いまも創れていない。
ただ、どんな生き方をしようと、それが「普通」になる場が、世界のどこかに必ずあるという安心感だけはある。
「普通」かどうか、なんてどうでもいいのだ。
幸せかどうかの方が、よっぽど大事なのだ。
関わる人が「普通」だろうと、「普通」じゃなかろうとどうでもいいのだ。
関わる人が幸せかどうかの方が、大事なのだ。