ども!オオノです。
前回の続きです。

実家からきた電話は「父を病院に連れて行って欲しい」というものでした。
ガンの疑いがあるから検査をしたい。とのことでした。
我が家から実家経由でお目当ての病院に行くと、車で片道1時間半~2時間。往復3~4時間!
めんどくさいな~運転大丈夫かな~と思いつつも、ゲームの中で性格の悪いキャラたちの依頼を受けまくっていたので、大事な家族のお願いなんてたやすいもんだ!と(笑)即座に「いいよ」と答えました。
ゲーム脳ばんざい!😂
1回か2回で終わるだろう、ガンじゃないだろう。
そう思って、軽く考えていたということもあります。
浅はかな期待を裏切るように、父はガンの可能性がきわめて高く、手術をすることになりました。
ところが、私はまだ楽観的に考えていたのです。
手術といっても麻酔が効いている間にお医者さんが切ってくれるだけだし。なーんて、自分の経験で甘く見ていたんですね。
そうじゃないんだと気付いたのは、外科のお医者さんと話していた時のことでした。
手術をした場合、たくさん歩かなくてはならないと言う先生に、
「リウマチで関節が痛いから歩けないんですよ」
と父は答えました。
スポーツマンでずっとバレーボールをやってきて、定年後はさらにゴルフとテニスも楽しんできた父。リウマチで歩くことすらつらそうにしている姿を見ていたので私も隣でうんうんとうなずきました。
そんな私達に先生は言いました。
「それでは困るんです。歩いてもらわないと手術できません」
「いや、でもリウマチで痛いんですよ。リウマチさえなければ歩けるんですけど」と父。
「それでも歩いてもらわないと手術はできないんです。歩かないと肺炎を起こして死んでしまう可能性があります。年齢的にも認知症を発症することもあります。ガンは取りました。でも肺炎で死にました。認知症になりました。それでは手術する意味がないんです。治すんだという気力を持っていただかないと」
父は黙ってしまいました。
沈黙に耐えきれず「気力ですか?」と私は尋ねました。
治したい、よくなりたいという気持ちなら父にだってあるはずだ。そう思ったからです。
「はい、気力です」
まだわかっていない顔をしていたのでしょうか。先生はたたみかけるように言いました。
「リウマチで体が痛い。だけど歩いて治すんだ。という気力です」
先生の迫力に、私は言葉を失いました。
「いやでも、先生。痛いんですょ……」痛さを訴える父の声も小さくなっていきました。
「ご自分のペースでいいんです。無理をする必要はありません。リウマチで足が痛い。それでも、『歩いて治すんだ』という気力を持っていただかないと手術はできないんです」
ああ、治したい。よくなりたいっていう気持ちだけじゃ気力って言わないんだ……。
外科医らしいハッキリとした言いように、いろんな思いがこみ上げました。
- 年寄りの手術がハイリスクなこと
- 父がもう年寄りなこと
- 父が年寄りなら、母も年寄りだってこと
- 弟のこと
- 自分が年をとった時には付き添ってくれる子供がいないこと
- 年老いてから、夫婦ふたりでどうやって過ごすんだろうかまったくイメージがわかないこと
- 「生きる気力がない」なんて言ってたけど、快適に生きられる時間が残りわずかだということ
- こんな時なのに自分のことを考えていること
感情がぐちゃぐちゃになって、少し泣いてしまいました。
何よりも強く、思い出していたのは7つの習慣のワンフレーズでした。
人間は刺激と反応の間に選択の自由をもっている
私たちは選んでいる
自分の人生に対する責任を放棄すると、反応的になる。例えば、反応的な人の多くは周りの物的な環境に大きな影響を受ける。天気が良ければ、気分も良い。しかし、天気が悪ければ、気分も悪くなり、遂行能力も低下する。
リウマチで足が痛むという刺激に、「歩けない」と父は反応的になっていました。
刺激と反応の間に選択の自由をもっているという考え方をすると
リウマチで足が痛む
- だから、歩かない
- だけど、歩く
常に、行動を自分で選んでいるといえるのです。
すっかり忘れてました!
わたくしオオノ、ブログで何度も紹介してたのにすっかり忘れて反応的に生きていました!!😭
自分で選んでいる意識が薄れるにつけ、ブログや動画の発信がしんどくなってました。
自分がやってることは誰かの片付けの手助けになってるんだろうか。ただなんとなく見られているだけで、誰の心にも響かない、相手の時間をただただ無駄にするようなブログや動画を作ってるんじゃないか。
暗闇にボールを投げ続けるようなむなしさ。
確かなフィードバックが欲しくて、意識が外へ外へと向いていく。
すっかすかになっていく心を埋めるものを求めて、何かないかと外へ外へ向いていく。
自分のことばっかり考えるんじゃなくて、お客さんや読者さん、視聴者さんのことを考えて……って思えば思うほど空回りしてしまう。
現実を変えたかったら自分が変わらなくては!
そう思えば思うほど、もう何をどうしたらいいのかわからなくなっていきました。
どうしてこうなったか。
反応的に生きているからだ。
何を変えればいいのか。
主体的に生きるんだ。
と、
いう
わけで!
学習性無力感(どうせ無理、何しても無駄)の克服にとりかかることにしました。
つづく
コメント
オオノさん、ありがとう。
色々あって折れかかっていたけど、私も大事なこと忘れていました。
うまく言葉にならなくてこれだけ伝えるのが精一杯だけど、いつも大事なタイミングで、オオノさんの記事が気づきをくれて救われています。
本当にありがとうございます。
アサノさん
コメントしてくださって、ありがとうございますヾ(*´∀`*)ノ
とってもとってもとっても嬉しいです。
こちらこそありがとうございます!!