結婚し、家に引きこもり、集団生活をしなくなって今年で12年。
世間とか社会とかの、端の端のほうで生きている。
同居家族は夫のみ。
お客様とも1対1のコミュニケーションが基本。
1対多の状況がほとんどない生活をしている。
そうすると不思議なもので、以前は「同調 ”圧力”」として忌み嫌っていたものが、自然災害の多い日本で助け合い共に生き残るために必要不可欠な「同調 ”能力”」に見えてきたのだ。
2020年頭のコロナウイルス関連の出来事でいうと、政治のトップが言っただけで、バーッと世間が同じ動きをし始めた。
マスク、手洗い・うがい、テレワーク、時差通勤、休校、イベント中止……。
良い・悪いは置いといて、この動き方はスゴイな。と。
みんなでやろうとする、この「同調 ”能力”」はスゴイぞ、と。
弱っている人は要求を言えない
発言の意図や背景を想像し察することが苦手で、(言わなくても察して!)という察してちゃん・察して君が大嫌いだった。
してほしいことがあったら、言葉で言え。伝える努力をしろ。
そう思っていたのだけれど。
弱っている人は要求を言えない。
心身ともに弱った時は、言えないし、動けない。
お節介な人たちがいなければ、死んでしまう。
言える人ばかりじゃない
伝える力が未熟な人たちもいる。
赤ん坊や子供はもちろん、大人にもいる。
察することができない人がいるように、自分の考えや思いを伝えることができない人がいる。
自分の考えや思いを伝えなくても、問題なく生活できてきた人ほど、物言わぬ人になる。
物言わぬ人たちと触れ合う度に、世の中に適応できてるからといって、満足しているかというと違うんだな、と思うようになった。
できることの裏にはできないことが隠れている。
解釈が変わると世界が変わる
忌み嫌っていた「同調 ”圧力”」が「同調 ”能力”」に解釈が変わったら、ひとりひとりが違うことと、みんな一緒に動くことは簡単に両立するって、思うようになった。
我ながら極端だ。
なんか今日は、とりとめのない日記になってしまったけれど。
今日くらいはいいだろう。
最後まで読んでくれてありがとう。
生きててくれて、ありがとう。