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EFコース~より深い人生を創造するために・6日目

頭の中から片付けるライフオーガナイザー®のオオノミエコです。 どうも!(^-^)/

オーガナイズウィーク チャリティイベント in 埼玉を途中退席した後は、新宿にて松丸先生のEFコース。

ワーキングマザーさんたちへの罪悪感とふいに気付いてしまった優越感の正体探しはひとまず追いやって、とにかく移動に専念します。

武蔵浦和から新宿は埼京線1本。

乗り換えなしで行けるので、駅についたら降りればいいだけ。

とはいえ、発達グレーですから。それが簡単じゃない。

SNSを見たりKindleで本を読んだりと、意識を浅く保つように。自分の内に沈まないように。

外との接続を切らないようにします。

新宿駅に着いたら会場まで10分ほど歩きます。

今度は、外と繋がりすぎないようにします。

新宿には目新しいもの・興味をひくもの・心奪われるものがたくさんあるので、気を抜くと持っていかれて「セミナー会場に行く」という目的を忘れてしまうからです。

10分ほどで着くと思っていたのに、実際にかかった時間は20分でした。同じ時刻、同じ会場でもうかれこれ6回目なんですけどね(笑)

やっと電車を降りたホームから、改札を抜けて、地上に出るまでの移動時間が10分もかかっていることに気付きました💦

12:58 会場すぐそばのコンビニでおにぎりと飲み物を購入。間に合ったことにホッとしましたが、松丸先生は遅刻。

胸に何かしらのひっかかりを覚えつつ、おにぎりをゆっくり食べていると松丸先生登場。

傷つかず、愛を得たい~コントロールドラマ

これまでの拒否された経験から、自分は愛されないという思い込みがある。

愛されないならば、せめて認めて欲しい・せめてわかって欲しい。

愛されない・傷つくを最小限にし、認められる・わかってもらうを最大限にしようとして、コントロールドラマをやってしまう。

パターンに陥って駆け引きにエネルギーを使ってしまうから余力がなくなっている。

4つのパターン

  • 加害者―攻撃的・強いか弱いか
  • 中傷者―攻撃的・気付いているか鈍いか
  • 傍観者―受動的・平気か動揺するか
  • 被害者―受動的・痛みがリアルか否か

組み合わせは「加害者・被害者」「中傷者・傍観者」
自分の慣れ親しんだポジションがあり、そこから動きたくないのでマウンティングが始まる。

例)被害者同士の引きずり合い

Aさん「膝が痛くてねぇ」
Bさん「私もよ、膝が痛くてねぇ。でも、腰の痛みに比べたらなんてことないわ。腰はどうしたって痛いのが消えないのよ。寝ても痛い、立ってても痛い」
Aさん「そうなのぉ。この年になると体の痛みはつきものなのよねぇ。立ったり座ったり家事するのがつらいって言ってるのに、旦那は優しい言葉ひとつかけてくれないんですもの」
Bさん「ほんと。毎日毎日、顔つき合わせて世話してるこっちの身にもなってほしいわよね。九州男児ってね、家にいたってなんにもしやしないのよ!お宅のご主人って北海道の人でしょ。いいわよね、北海道の人って。生まれ変わったら家事分担できる男と結婚したいわ」
Aさん「わたしは生まれ変わったら家事のない世界に行きたいわ」
Bさん「あら(笑)」
Aさん・Bさん「それはいいわね。オホホホホ」

一見なごやかな引きずり合い。両者どちらがより被害者か、悲劇のヒロインかをアピールし合います。愛が駄目ならせめて同情だけでも欲しいという気持ちの表れです。

みなブレンド具合は異なるが4つすべて持っているとのこと。

私は自分のことを被害者の皮をかぶった中傷者だな、と思いました。

まわりの人たちは多数派で、難なく集団に適応しまわりの人と仲間になってひとつのことを成し遂げる力がある。

対して私はというと、いつも少数派でどうでもいいことにひっかかってしまう。空気が読めずに周囲から浮いてしまう。
自分の繊細さを否定される。社会的に正しくあるよう矯正せよと圧をかけられる。

そんな不器用な私。かわいそうでしょ?

コントロールドラマそのもの!!

チャリティイベントで私が感じた罪悪感と優越感は「集団からいつも浮いてしまう私」を演出するための思考のクセだったのです。

集団の中で、みんなができていることができない時は罪悪感を、みんなができていないことができてる時は優越感を。
常にその場にいる誰かと自分を比べて競争している。
心の奥で勝った・負けたを繰り返してる。

集団に溶け込んでその他大勢になるのは嫌だ。社会生活は競争なのだから。競争に勝つためのルールや攻略法を教えられるまでは何が何でも社会に出ないぞ。勝てない戦いに挑むのはバカのすること。

そんな思い込みがあったのです。

てか。

子どもを産まない上にフルタイム勤務してなくて申し訳ない。みんなの足を引っ張ってすまないという罪悪感は、戦えない私を切り捨てないでね、悪いとわかってはいるから仲間外れにしないでねというポーズなのです。わー。醜い。

がんばってるママさんたちと同じ能力があるのに、がんばってなくてごめんなさいね。

そんな前提があったのです。

・・・・・・。

ツッコミどころしかない(´-∀-`;)

同じ能力ないし、同じ土俵に立とうとすらしなかったよね。

そもそも子どもを産まないつもりでいたくせに、なんでママさんたちと同じ仲間に入ろうとする?

なぜ集団に属したくないと人付き合いを避けまくるのに、「私を大事にしろ!私にはその価値があるのだ!」と要求ばかりするのだろう。

この自分自身を過大評価し、他者に対するありえないほど高い期待が、生きづらさの原因だともう何年も気付いているのです。でも、なかなか抜け出せないのです。

愛が足りない

私の中にある幼稚な全能感。お姫様気質。
世界の中心は私。
愛されているから、まわりにいる人達はみな私の機嫌をとってくれる。ちやほやしてくれる。

当然そんなわけありません。

頭ではわかっているのです。

でも、心の奥には穴が空いたように「愛が欲しい」「愛が足りない」と飢えているのです。

本当に欲しいものは手に入らない。
本当に欲しいものだけが手に入らない。

松丸先生がおっしゃったように、愛がダメなら承認を。承認がダメならせめて同情を。同情さえもダメなら、せめてなにがしかのリアクション。ただそれだけでもいいから欲しい。

そんな飢餓感。

だって、

本当に欲しいものは手に入らないから。
本当に欲しいものだけが手に入らないから。

もらってももらっても、まだ足りない。もっとくれ。
外からの愛がなければ生きていけないのに、満たされることがない。もっと欲しい。

親兄弟はもちろん歴代の彼氏にも求めまくっていました。

が、唯一、例外な人がいました。

夫は違った

夫に対しては飢えを感じたことがないのです。
○○して欲しい、という要求がわかないのです。

夫は夫。私は私。

いままで恋人になる人には、心の傷を理解して欲しい。ダメな私を受け入れて欲しい。私もダメなあなたを愛するから。そんなギブアンドテイクの気持ちがありましたが、夫に対してはまったくなかったのです。

切々と母親との不仲を訴えても、父親の存在の希薄さを訴えても、子供時代のつらい出来事を語っても、慰めも同情も動揺すらなく「ふーん。それはつらかったね」と流されるであろうなとわかったのです。

コントロールドラマに乗らない人。
生きている、ただそれだけでプラスなんだよ。マイナスになんかなれっこないよと言う。生きてるだけで丸儲けな人。

もっとちょうだい。もっと欲しい。もらえないなら死んでやる!の私からしたら、信じられないくらい穏やかな人。

恋愛のあのジリジリするような飢餓感とは無縁の人。

愛は与えるものでなく、楽しむもの

夫といると愛はもらうものでも与えるものでなく、ただ楽しむものになります。

もちろん嫌いなところもたくさんありますよ。いらっとすることもたくさんあります。
汚片付け中はモノを捨ててくれーってイライラしたし(笑)
ご飯ができてさあ食べようかという所で「○○作ろうかな」って飲み物作り始めるところとかめちゃくちゃ怒りますよ。

でも直そうと思わない。直してくれ!と思わない。
こうしたらいいのに。ああしたらもっと良くなるのに。と思わない唯一の相手。

私は他人に対してだけでなく自分自身にも、改良改善しようとしているのに。

もっと一緒にいたい、もっと愛して欲しい。もっと私を見て欲しいと懇願した相手とは得られなかった穏やかな気持ち。なんて幸運なんだろう。

そう思いながらも、心の奥で傷がうずくのです。

でも。

本当に欲しいものは手に入らない。
本当に欲しいものだけが手に入らない。

お前が欲しがるものよりも、もっとずっといいものを与えられているのだよ。
その幸運に感謝して、我慢なさい。

「ストレスは役に立つ」と思うと現実もそうなる スタンフォードのストレスを力に変える教科書とわかっているのに。
「片付けられない女じゃない。片付けをやってこなかったから苦手なだけ」と思い込みを変えることで、汚部屋脱出し人生を変えた経験もあるのに。

本当に欲しいものは手に入らない。

この思い込みを書き換えることができないのです。

本当に欲しいものが手に入る。
本当に欲しいものが手に入る。
本当に欲しいものが手に入る。

何度言ってみても、自分の中に入らないのです。

・・・。

ところで。

本当に欲しいものって何なのでしょうか。

 

つづく。

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