前者だろうと後者だろうと「片付けられない」で悩みます。
(前者後者とは→心屋さんの前者後者論)
(読んでちょ→むかえさんの【保存版】前者後者って?(基本編))
前者後者で「あ、違うな~」と思った点がタイトルの件。
- 前者:「私は」
- 後者:「まわりは」
が、苦手!
だって前者or後者だから……。
- 「まわりは」がいつも見えている前者さん
- 「私は」がいつも抜けない後者さん
後者ライフオーガナイザーは言います。
「家族がどう思うかじゃなく、あなた自身がどう思うかが大事なのよ」と。
前者さんはこの考え方に困るみたいですね💦
前者の苦手ワード:「私は」
前者さんと話していると驚くのが、
舅・姑・夫・自分・長男・長女・夫の妹の7人家族の専業主婦だったとしても、
一般家庭モデル『父・母・子の3人家族』の兼業主婦の時短術!!を真似しようとする所。
え?なんで?ぜんぜん違くね???
ていうか、なんで他人の猿真似すんの???
あなたは魅力的なんだよ?そこいらの他人の真似なんかする必要まったくないんだよ!
と、前者後者論を知るまでは誰かれ構わず言っておりました。
自分と同じように所属する集団も大事なのが前者さんなのに。
後者がやりがちなミスですね。
「私は」にこだわらないのは自己肯定感が低いからではなく、必要がないから。
後者が「私は」にこだわるのは、必要があるからなんですよねー。
だって「まわりは」よく見えないんだもの。
後者の苦手ワード:「まわりは」
正確にいうと、見えるんですけどしょっちゅう消えるんです。
「まわりは」どんな状況か。
自分の感覚・感情・思考にどっぷりハマると「まわりは」消えます。
時間・空間・人間が消えて、自分だけが残る。
ふとしたことで消えてしまう「まわりは」は拠り所にでません。というわけで、自然と「私は」どうかってのが拠り所になる。
最後まで行き着くと自分さえも消えるんですが、日常生活でそこまでいくことはなかなかありませんしね。
前者の片付けは「剪定」
伸びすぎた枝を切るように、使っていないモノを手放す。
余分なモノを減らしていく。
前者さんの「片付けられない」はトゥーマッチなんですよねー。
モノを持ち過ぎ、手を広げ過ぎ、受け入れ過ぎ、我慢し過ぎなどなど。
幹(自分)がやせ細るほど、あれもこれもとがんばる。
勇気を持って手放しましょう。
部屋が片付いているという状況は枝です。
どんなに美しくても、あなた自身がスカスカではいつか枯れてしまいます。
「私に栄養を与えることでまわりが元気になる」です。
「ママの笑顔が家族の幸せ」っていうあれです。
前者さん。
「私は」どうなの?
後者の片付けは「生ける」
後者はねぇ……。
人それぞれ、出てくる現象が異なるんで、なかなか言い切るのが難しいんですが。
後者の「片付けられない」にほぼほぼ共通するのは、時間・空間・人間という枠組みの希薄さです。
花を花器に生けるように、大切なものを時間・空間・人間の枠組みの中に配置する。
後者が所有するモノに余分なモノなど何一つないんですよ。
何かしらが自分と結びついたから所有しているんですもの。
けれど、すべてを同時に同じ場所で同列に扱うことはできません。
10分で夕飯を作れるようなキッチン収納にする時は、オシャレさが二の次にくるということを意識するってことです。
- 序列を付ける
- 整合性をとる
- 変える時は前提条件からまるっと変える
ってのが後者さんの片付けには大事です。
「この器にはこの花々を。あぶれた花には別の器を」です。
また、その時々の気分でルールを変えていたらいつまでも未完成。
どんなに片付けようという気持ちがあっても、形にしなければないのと同じです。
「とりあえず完成させて、細かいところは後で修正しよう」
形にしなければ「まわりは」見えません。
あなたにしか見えないのです。
「私は」序列もなく、整合性もない、矛盾だらけの存在です。
そのまんまを形にすることは、決してできないのです。
頭の中は白と黒が同時にそのまんま存在する世界だけど、現実はグレーになるか白と黒のモザイクになるかだからね~。
後者さん。
「まわりは」どうなの?
とはいえ
前者さんの身を削り尽くし育てる姿にも憧れる。
後者のぶっ飛んだ世界で創造する姿にも憧れる。
から……
みんな好きで生きよう!
コメント