時々ね、思うんです。
こんなにも多種多様な価値観や選択肢に囲まれずに、たった1つの道しかなかったほうが、幸せだったんじゃないだろうか。
戦中・戦後の村社会に生まれたら、なんだかんだ言いながらも「いい子」「いい女」「いい母」としてガッチガチな人生を歩んでいけたのではないか。
ADHDタイプのライフオーガナイザー®
オオノミエコです。
私は絶対的なものに安心を覚えるタイプの人間です。
正しいこと。
ルール。
○○は◎◎だから□□になる、といった法則性。
カリスマ性のあるリーダー。
人智を超えた”なにか”。
私なんかには想像もできないような「賢さ」「力強さ」「自信」「真実」「智慧」を持つ存在。
家長、先生、上司、リーダー、指導者
絶対的なパワーを持つ人の下で働きたい。自分のできる限りを捧げたい。尽くしたい。
そういう願望が、ありました。
正直、今もあります。
「自分の人生を、自分で決めて自分のために生きる」よりも、「自分の人生を、誰かや何かのために捧げて生きる」ほうが好きなのです。
自分という不安定で弱い存在のために生きる。とても不安です。いつも迷います。
対して、絶対的なもののために生きる。安心です。迷いません。
大義が欲しい。
ボスが欲しい。
信じるに足るものが欲しい。
ずっとそう願って生きてきました。
この願望は、まず親に対していだきました。
自分にとって絶対的な存在になってほしい。
親への期待と願いが、失望に変わり、見限ったのは幼稚園の時のことでした。
カリスマ性のあるリーダーに出会ったのは小6の時でした。
正しく、公平、情熱もあり、冷静さと知性がある担任の教師でした。
迷いのない言葉、他のクラスとは違う授業、クラス活動。一体感を感じさせる取り組み。
私は生まれてはじめて「絶対的な存在」と出会いました。心酔しました。
先生に褒められたくて褒められたくて、褒められると嬉しくて、また褒められたくて。
先生に気に入られるような言動をしていました。
先生の目がいつも冷たいことや、落ちこぼれを作らないことに必死すぎることに、ある種の恐怖を感じていましたが、私は自分の中の違和感を無視していました。
先生についていけば安心だったからです。
それが一変したのは、一緒のグループだった女子3人から私に対してクレームが出された時でした。
先生はまず私を呼び、何があったかを説明してくれました。
内容は些細なことでした。
私が学校につけていったバレッタが派手すぎる。
それに対していかがなものかと3人が言っている。
仲良かったはずなのに、急にそんな事を言い出すなんて、何かあったのか。
思い当たる事はなにもありませんでした。
ショックでした。
直接言ってくれればよかったのに、なぜ先生を通してそんな事を言うんだろう。
なにか悪いことをしたのかな?
でも、なぜ直接言ってくれなかったんだろう。
もっとショックだったのは先生の言葉でした。
「先生は別にいいんだが、あいつらが嫌がってるんだから、その髪飾りは学校につけてくるなよ」
味方になってくれると思ってた先生が、彼女たちの側についた。ショックでした。
私は自分にこう言い聞かせました。
3対1じゃしょうがない。
それでもまだ先生を絶対的な存在として尊敬していたのです。
失望したのは卒業式の後、ホームルームの時間でした。
ひとりひとりに言葉をかけていく先生。みんな泣いていました。
みんな素敵な言葉をかけてもらってる。私はどんな言葉をかけてもらえるのかな。私、とってもいい生徒だったと思うの。先生にとってもいい生徒だったって思ってくれるんじゃないのかな。
期待でわくわくしていた私にかけられた言葉。
そのほとんどを思い出すことができません。
最後の一言が衝撃で、その前を思い出せないのです。
先生は言いました。
「お前のその、唇をいじる癖、直してやりたかったんだがな」
ショックでした。
ああ、こいつもか。こいつも私の表面を変えようとする奴だったのか。
上っ面をとりつくろう奴だったのか。
内面を見ようとしない浅はかな大人だったのか。
私が感じていた違和感はこれだったのか。
冷たい目。観察する目。あれは私を変えようとコントロールする目だったのか。
もっと自分の直感を信じればよかった!
なぜ母親ですらできないことを、単なる教師のお前ができると思ったんだ。
ふざけるな。
もう誰かを信じたりしない。
もう中学生になるのだから、大人に期待するのはやめよう。
そう決めました。
それでも、心の奥底では絶対的な存在を求めていました。
自分の望みに気付かなかった私は、恋愛相手に「力強さ」「明確さ」「命令する」人をよく選んでいました。
オレサマ彼氏。というとなんだか素敵に聞こえますねw
でも、「力強さ」「明確さ」「命令する」人というと、年上か、浮気者か、モラハラ男ぐらいしかいません。
年上も、浮気者も、モラハラ男。
すべてのタイプと付き合いましたが、欠乏感は増すばかりでした。
結局、「優しく」「優柔不断」「話し合う」「年下」の草食男子と付き合って結婚。
真逆の人を選んで幸せに。
自分が絶対的な存在を求めている。
だから、カリスマ性のある人に認められたがってる。
そのために、自分の意見より相手に認められそうな意見を言っている!
そう気付いたのは、ライフオーガナイザー®になってからです。
ライフオーガナイザー®向けの講座の最中に、ハッと気付いたのです。
自分の意見ではなく、講師に認められそうな意見を言っている。
「いい生徒」になろうとしている!
彼女に褒められたがってる!!
そこでようやく、自分が絶対的な存在に認められることで、安心を得ようとしていたことに気付いたのです。
過干渉な母親と無関心な父親。過剰な母性と父性の欠如。
これは私にとってテーマです。
そして、私のお客様にとってもテーマのようです。
片付けの現場で、お客様に
(どちらが正しいのか、決めて欲しい。それに従いたい)
と身を委ねられるような、依存されるシチュエーションが何度もありました。
そのたびに、私は恐れおののくのです。
やめて!私はあなたじゃない!あなたの代わりに決断なんてできない!!
私には導く力なんてありません。
みんな、ひとりひとりが自分を幸せにする力がある。
誰かに頼らなくても、依存しなくても、自分で自分を幸せにする力はみんなにある。
何かが邪魔をしているだけ。
進もうとしているお客様を邪魔しているものを見極め、取り除きたい。
本来持っている力を解放してほしい。
そう思うのです。
多種多様な価値観や選択肢のある現代で、絶対的なものを外に求めると、カルト宗教やマルチ商法にいきつくのではないでしょうか。
リーダーをトップに据えた、ピラミッド構造の組織の中にいると自分のポジションが明確です。次に何を目指すのか(上を目指せ!)も明確です。
なんのために、なにをやるのか、なにをしないのか。
全部リーダーが決めてくれます。
失敗したらリーダーのせい?いいえ。自分が至らなかったせいです。
精進しなくては!!もっともっとがんばらなくては!もっとがんばって、リーダーに認められる存在にならなくては!褒められるように!誇りに思ってもらえるように!!
絶対的なもののために生きる。安心です。迷いません。
自分が絶対的なものに安心を覚えるタイプか、否か。
自覚して生きるのと、無自覚に生きるのでは大違いです。
ちなみに。
父性や男性性は「今と違う」「人と違う」「遊び」で育まれます。
正解や目的なんて放り投げて
片付けなんて後でいいから
遊ぼう!
うん。
部屋の片付けは、自分のためにやるもの。
片付けが嫌いなら、なおさら。自分のためにしかできない。
部屋の片付けよりもまず、自分を笑顔にしてあげて。
長文になっちゃった💦
たった一人の人のために書きました。
Kさん、読んでくれるといいなぁ。
最後までお読みくださりありがとうございました!
では、また。(^-^)/
オオノでした。
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