片付けられないというより、捨てられない女だった私ですが、今ではすっかり捨てる女になっています。
極端から極端に走りやすいので、洋服だろうと思い出の品だろうと食べ物だろうと関係ありません。
すべては等しく”モノ” なので、すべて同じ基準で捨てます。
捨てる基準。
それは、私とモノと空間の関係がポジティブなものか否か。
黒い部分におさまればポジティブ。
ノーストレス。
パーフェクトすぎて、むしろ何も感じない状態。
グレーな部分はちょっとネガティブ。
私・モノ・空間。
どこかに無理をさせるとなんとかごまかせる。
モノを増やしたら、空間と私が圧迫される。
空間を増やしたら、モノと私が圧迫される。
私を増やしたら、モノと空間が圧迫される。
という、関係性に注目するようになったから私は捨てられるようになったのです。
モノの価値どうこうではないのです。
世間一般の価値基準では高価で稀少で小さいモノ、
例えば、現代では再現不可能な技術を駆使して作られたダイヤの指輪だったとしても、
「私」との関係がネガティブであれば、
ゴミに出したって良い。
本気でそう思っています。
捨てられない女だったくせに、
極端ですね(笑)
胃を部分切除した今となっては、食べ物も残します。
外食はほぼ毎回残します。
ごくごく稀に食べきれるメニューと出合えますが、めったにありません。
「胃を切ってるから……」という免罪符を手に入れて、胃ガンになってよかったとすら思います。
そのぐらい食に関する縛りは手強いです。
命をいただくという意味を強めれば強めるほど、食べ物に対する罪悪感が増し、食卓はお葬式になるのでしょう。
食べ物を捨てることの罪悪感って、一二を争う強さなんじゃないかしら。
「片付けたければ捨てろ!」信者の人も食べ物は「捨てろ!」って言わないような……。
そうでもない?
食べ物を大事にするあまりに、自分の胃袋をゴミ箱扱いしてる光景を目にすることはない?
でもね。
「私」以上に価値のあるモノなんて、「私」にはない。
本気でそう思っています。
世間の価値基準と合致するかどうかは別の話。
だから、
「食べ物を残すなんて!!#!#!”#」
「まだ使えるのに捨てちゃうなんて!fhjkl」
「もったいないのと思わないの?」
等々、
脊髄反射的に批判する人がいるだろうことも承知してます。
だから、クライアントさんにはずっと変わらず
「捨てたくなかったら捨てない」
「捨てたかったら捨てる」
と言います。
世間の価値基準を気にするというクライアントさんの価値基準を尊重したいからです。
モノが減ると片付けは簡単に、信じられないほど簡単になりますし、
捨てて後悔するか、捨ててよかったかどうかは、
片付けをやめたいか・片付け続けたいかで、変わる程度のものなので、
ついつい私の意見は「捨ててみようか^w^」に傾きがちですが……。
ええ、ええ。
アドラー心理学的にいうと、目的があって原因があるのです。
片付けをやめたい(目的)から、捨てて後悔した(原因)モノに注目する。
片付け続けたい(目的)から、捨ててよかった(原因)モノに注目する。
そういう観点でいうと、「捨てる」ことにたいした意味はないんです。
たんなる行為ですから。
自分がどう評価するかのほうがよっぽど大事。
モノを大事にできず捨ててしまったという過去に罪悪感を抱くか。
自分と合わないモノを早々に手放す決断力があったという現在に満足感を抱くか。
何を感じるかが大事。
モノを早々に手放すことで、自分を消耗させることが減り、
堪忍袋がスッカスカになってきてる。
嫌なことがあっても、堪忍袋の緒が切れることがなくなった。
堪忍袋がスッカスカなもんでw
そう感じるから、
私とモノと空間の関係は、いつもポジティブにしておきたい。
だから、
今の私は「捨てる女」なのです。
また「捨てられない女」「捨てない女」に変わる日が来るかもしれないけどね:p
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