7つの100日チャレンジを終えて、ようやっと気付いたことがある。
最初は、できない自分をできる自分に変えたくてチャレンジしてた。
掃除、読書、ウォーキング。
怠け心を肯定しつつも、ほんのちょっとだけでいいからやり続けよう。
自分を励まし、応援し、時に「やるって決めただろー!嘘つきになりたいのかー!」と熱く叱咤し。
なんだかんだ、やり始めたら楽しい。
動き出す時がしんどいだけで。
だから、動き出す時だけがんばればいい。
そうやって5つのチャレンジを終えた。
だんだん、自分の扱い方もわかってきて、100日チャレンジを1つだけっていうのも物足りなくなって、つい先日まで「ヨガ」と「先延ばし撲滅」2つ同時に行うことにした。
同時進行20日過ぎたあたりから、
動き出しのがんばりに負荷がかかるようになってきた。
なんのためにがんばるの?
チャレンジしてなんになるの?
できない自分って、ダメなの?
先延ばししたっていいじゃん。
やりたい時だけやればいいじゃん。ヨガ。
掃除も洗濯も片付けも料理も夫とのコミュニケーションも、
人前で話すことも、他人の話を聞くことも、
全部全部、できなかったことができるようになって、
で?
で、
私、幸せ?
あぁ、できるようになった。嬉しいなぁ。
の、
一瞬だけが楽しくて。
この一瞬を味わいたくて、できないことを探して、100日チャレンジしてできるようになって、またできないことを探して、ずっとずっと同じことを繰り返して、
楽しい?
誰も褒めてくれてないけど。
楽しい?
できない自分の時も孤独だったよね。
できる自分になっても、
孤独だよね?
むなしさを覚えた私は、100日チャレンジを続けながら、怠惰さも全肯定してみた。
できない自分の全肯定。
それは、お酒。
お酒を飲みたい時に、飲みたいだけ飲む。
ひとり飲んだくれて、気絶するように寝て、起きてまた飲んで、時には吐く。
床の上に寝転がりながら、ゆらゆらと歪んで見える天井を眺める。
自分を鍛えること・自分を甘やかすこと、
この2つを同時期に行った。
セルフイメージはぐっちゃぐちゃ。
できる私もいれば、できない私もいる。
なりたい私になってる自分と、このままじゃ嫌な私でい続ける自分。
結果、どんなことがわかったかというと。
自分への愛は変わらないってこと。
と、
行為自体に意味はない。
ってこと。
ヨガをやっても先延ばし撲滅をやっても、
昼間から泥酔しても、
行為自体に意味はない。
行為に何を見出しているのか、
その行為が何をもたらすと信じているか。
つまりは、
信じているものに救われている。
ってこと。
なんかすごーくスッキリした。
その行為が何をもたらすと信じているかが鍵なんだって。
片付けという行為自体が人生を変えるわけじゃない。
片付けたら人生が変わると信じているから、人生が変わるんだ。
私が信じているものが私の救いになる。
あらためて自問する。
なぜチャレンジする?
楽しいから。
これに尽きる。
チャレンジって、今の自分に少しの負荷をかけていくこと。
成長するってこと。
今の自分(1.0)に1.1かけていくこと。
動き出す時しんどいのは、止まっている時の自分はゼロだから。
ゼロを1.0にするのはいつだって、誰だってしんどい。
私だけじゃない。みんなしんどい。
このしんどさは決してなくならない。
それでもやるのは、しんどさは一瞬でその先が楽しいからだ。
伸びる気持ちよさがあるからだ。
広がっていく喜びがあるからだ。
酒を飲んだり、甘いもの食べたり、二度寝をしたり、
っていう快楽のために動き出すのが簡単なのは、
ゼロのままでできることだから。
私だけじゃない。みんな楽。
ずっとずっと楽。
楽だから、ゆるむ。ほぐれる。
楽しさを求めれば、伸びる。広がる。
楽をすれば、ほぐれる。ゆるむ。
緊張と緩和。
肉体そのものじゃありませんか。
楽しむこと。
楽をすること。
どちらも不可欠。
私は楽をしたい。
だから、やりたいことをやる。やりたくないことをやめる。
私は楽しみたい。
だから、チャレンジする。
もっと楽に、ゼロのまんまできることを。
もっと楽しく、ゼロを1.0にして、×1.1し続ける。
1.0の見極めが難しい、っていう話はまた次の機会に。